Yumiki Aki
俳人・作家。
1999年生まれ、牡羊座。
照明と近代建築と季節の果物が好き。
俳句雑誌「noi」誌友、「noist 2025」に選出。
第一回京都俳句賞にて、岩田奎賞を受賞。
俳人・作家。1999年生まれ、牡羊座。照明と近代建築と季節の果物が好き。岩手県立水沢高校で俳句甲子園全国大会に出場。東北の若手による俳誌「むじな」に参加。俳句雑誌「noi」誌友、「noist 2025」に選出。小説やエッセイをnoteに発表。
第一句集『くるる』(2025年、むじな発行所)は全115句を収録。錠剤のまあるい眠り、サンキャッチャーが散らす虹のかけら、号泣のあとに届く光——日常の微細な瞬間を十七音に封じ込めた。跋文のエッセイ「まなざす|the gift of witnessing」も必見。
小説集『桃のひるげ』(2026年)は、名前のつけられない関係と、ばらばらにやってくるしあわせをめぐる連作。バスの遅延、ビリヤニを混ぜる銀のスプーン、冬の夜のパピコ、二つの赤い椅子。食べること、見ること、景色を覚えていること——それだけでじゅうぶんだという発見が、全篇を静かに貫く。
花あしびるるうと君の泣きはじめ
譜に雨のわだち山吹連なれる
花冷の海をひとすぢ防波堤
黄蝶ふとてんじやうにふる図工室
泣きがほの瞼に星の金涼し
背泳のまま先生の笛を聞く
深爪どうし桃のひるげをわけあつて
ランプよりのがれたるひかりやことり
花鶏いま君がわが詩を読みゐたり
吐瀉にとしゃとルビふる夜の霙かな
2025年 / むじな発行所 / 全115句
第一句集。錠剤のまあるい眠り、サンキャッチャーが散らす虹のかけら、号泣のあとに届く光——日常の微細な瞬間を十七音に封じ込めた。跋文のエッセイ「まなざす|the gift of witnessing」も収録。
2026年 / 全8篇
名前のつけられない関係と、ばらばらにやってくるしあわせをめぐる連作。バスの遅延、ビリヤニを混ぜる銀のスプーン、冬の夜のパピコ、二つの赤い椅子。食べること、見ること、景色を覚えていること——それだけでじゅうぶんだという発見が、全篇を静かに貫く。
掲載情報
弓木あきが読む。
夜焚火に金色の崖峙てり/水原秋櫻子
冬の夜の闇と、焚火の立ち上がる炎。崖の岩肌がその炎に照らされ、金色の壁となって現出する。
鮮烈なのは、「峙てり」という結びだ。「峙つ」という力強い動詞の選択。そして、動作や作用が持続しているさまを表す助動詞「り」。こうした文語の措辞により、「金色の崖」という神聖で幻想的な光景は、読み終えたあともなお読者の眼裏に屹立し続ける。
色彩について考えるたび、炎ほど豊かな表情をもつ物質は、他にないのではないかと心奪われてしまう。掲句の場合、炎そのものの色ではなく、照らされた崖の金色を言い当てることで、かえって炎の様相を想像させている。
水原秋桜子『葛飾』(昭和五年、馬酔木発行所)より。
2026年6月8日 弓木あき
弓木あきが読む。
明滅の滅を力に蛍飛ぶ/正木浩一
「蛍」の本質を「滅」、つまり光の消えている時間に見ているという逆説が美しい。また、光が消えた次の瞬間にまた灯る蛍の様子を、「滅を力に」とする把握。ここには、光ることで飛ぶのではなく、消えることで飛ぶのだという、生への深い洞察がある。
「明滅」という熟語を解体したうえで、「滅」に生のエネルギーを見出し、さらに「蛍飛ぶ」という具体的な動作に着地させた手腕。
正木浩一『正木浩一句集』(1993年、深夜叢書社)より。
2026年6月9日 弓木あき
弓木あきが読む。
水を吸ふ凍蝶に紋ありにけり/大木あまり
すっかりと弱った冬の蝶が、もうほとんど死に近い存在となりながら、それでも水を吸っている。
「ありにけり」は、たったいま気がついた、という発見の詠嘆だ。衰弱したものと見ていた凍蝶だが、ふと目を凝らせば、翅に紋がある。死の側へ傾いていた存在が、にわかに紋という固有性をもって立ち現れてくる。
生命がぎりぎりのところにあるとき、かえって存在の細部があらわになるという逆説の一句。凍えた生命のなかに、それでもなお消えない紋様を見ている。
大木あまり『星涼』(2010年、ふらんす堂)より。
2026年6月9日 弓木あき
弓木あきが読む。
をちこちに光逃がして花火かな/野口る理
「をちこちに光逃がして」という上五中七は、花火がただ光っているというよりも、光が散らばってゆく様子の描写に近い。まるで、花火が抱えていた光を手放しているかのよう。また、動詞「逃がす」には、自由や解放のニュアンスが含まれている。つまり、花火が光を夜空へ解き放つ、という動的な光景として把握されているのだ。
加えて、下五「花火かな」の詠嘆の着地も見事だ。まず夜空に光が放たれる光景を見て、「逃がす」かのように感じ、それが最後に「花火であった」と気づく。こうした発見のプロセスを、読者も追体験することができる。
花火を「光を逃がすもの」として捉え直したところ、そして巧みな構造に、この句の凄みがある。
野口る理『しやりり』(2013年、ふらんす堂)より。
2026年6月10日 弓木あき
弓木あきが読む。
風船をもらひしよりの手の弾み/杉山久子
風船を手にした瞬間から、手はただの手ではなくなる。風船に引っ張られ、揺らされ、浮き立つものになる。ここで弾んでいるのは風船でもあり、手でもあり、そして同時に心でもある。
掲句は風船の色や、もらった側の表情を一切描いていない。しかし「手の弾み」という一語だけで、それらをすべて想像させてしまう。風船を得たあとの身体の変化だけを描くことで、むしろ喜びの全体が見えてくる。
また、「もらひしよりの」という中七が一句の核だ。受け取ったその瞬間から今に至るまで持続している、うれしさや胸の高鳴り。風船をもらった一瞬の喜びではなく、歩きながら、手に持ちながら、まだ続いている弾み。その時間感覚が、この句を生き生きとさせている。
杉山久子『栞』(2023年、朔出版)より。
2026年6月11日 弓木あき
弓木あきが読む。
雲を押す風見えてゐる網戸かな/生駒大祐
「雲を押す風」という把握がまず大きい。風そのものは見えないはずなのに、雲が動くことで、風が空を押しているように見える。ここでは、見えないものが、動かされるものを通して可視化されている。
そして下五の「網戸かな」。空の雲を見ているはずなのに、最後に視線は眼前の網戸へ戻ってくる。遠景の雲と、近景の網戸。そのあいだに風が通っている。網戸は視覚を遮る膜ではなく、外と内とをつなぐ触覚の境界なのだ。
掲句の魅力は、広い空の運動を、網戸という身近な生活の一点から身体に結びつけているところだ。雲を押すほど大きな風が、網戸を隔てたこちら側にも来ている。夏の家の中で、遠い空と自分の身体とが、「風」によってつながる。
生駒大祐『水界園丁』(2019年、港の人)より。
2026年6月12日 弓木あき
弓木あきが読む。
まぶしさの鶴おちてくる北は紺/宇多喜代子
感覚の飛躍に満ちた一句である。
まず、「まぶしさの鶴」という把握が美しい。鶴そのものだけではなく、空の高みから降りてくる光までを見ている。そして、鶴の飛ぶさまを「おちてくる」という語で捉え、言い当てた。その結果、高い空から地上へ近づいてくるときの垂直的な運動がより強調され、まるで一塊になった光が空から降下してくるような印象を与える。
さらに「北は紺」の着地も見事だ。鶴のまぶしい白さと北空の紺色の対比により、冬の澄んだ空気感がありありと想起される。
宇多喜代子『りらの木』(1980年、草苑発行所)より。
2026年6月13日 弓木あき
弓木あきが読む。
君といつか杖を突きゆく花野かな/藤井あかり
あかるさのなかに、はかなく淋しい予感を抱かせる一句。
「君と」が句の最もはじめに置かれることで、その三音に込めた切実さが痛いほどに伝わる。しかし、それはいま現在の約束ではなく、遠く不確実な未来への祈りとしての「いつか」である。しかも「杖を突きゆく」ほどの未来だ。身体が衰えても、たとえゆっくりとでも、「君」と一緒に歩みたいという願いは具体的な生の実感と不安感とをともなう。
また秋の季語「花野」は華やかでありながら、どこか冬へ、喪失や終末へと向かっていくようなほのかな淋しさを含意する。まるで、ふたりの時間の盛りと衰えを同時に象徴しているかのようだ。
「君」と隣にいるいまは、決して永遠には続かない。しかし、書くことで「いま」は未来へと引き伸ばされる。一句のなかで、現在の並び立つふたりと、「いつか」の杖を突くふたりが二重写しになる。広大な花野は、そのあいだに横たわる長い歳月そのものではないか。
藤井あかり『メゾティント』(2024年、ふらんす堂)より。
2026年6月14日 弓木あき
弓木あきが読む。
春風にからだほどけてゆく紐か/田中裕明
印象的なのは「からだほどけてゆく」という措辞。長い冬の寒さにかたく強ばっていた身体が、春の風を受けて、すこしずつ緩んでゆく。「ほどける」という語が、まるで結ばれていたものが解かれてゆくような、こわばりから解放されてゆくような身体の感覚を、的確に言い当てている。またひらがなによる表記も、やわらかさや解放の気配を濃く感じさせる。
そして「紐か」という問いかけによる結び。ほどけてゆく身体はここで「紐」の運動に見立てられる。しかも、からだが紐のようだと言い切るのではなく、まるで紐だろうか、とそっと着地する。その認識の淡さが、春風にぼんやりと身を委ねているときの、まどろむような心地と響く。
冬から春へ。かたく強ばっていたものが緩み、ぎゅっと結ばれていたものがほどけてゆく。そのさまを、「からだほどけてゆく」という身体感覚と、「紐」という見立てとで掬い取っている。季節の移ろいが、ひとすじの紐のほどけるさまへと幻想的に異化されている。
田中裕明『櫻姫譚』(2002年、邑林書)より。
2026年6月18日 弓木あき
弓木あきが読む。
ブルーデージーこころにさきがけて涙/神野紗希
「ブルーデージー」の「ブルー」が、開幕から一句のトーンを決定づける。青い花弁の可憐さ。これは明るくて、そして透明な青だ。だからこの涙も、おそらく激しい慟哭というよりは、自分でも理由がまだわからないままに、ふとこぼれてしまう涙に見える。
花の名前が置かれた直後、「こころにさきがけて」「涙」という句またがりのフレーズが来る。悲しいから泣く、感動したから涙が出る、というように心情が先にあって、その結果として涙が流れるのが一般的なロジックだ。しかし、この句では順序が逆だ。感情として把握される前に、身体が反応している。まるでこぼれる涙のほうが、心よりも早く何かを知っているかのようだ。
一句の白眉は、マルチモダリティ論的な仮名/漢字の選択やそのレイアウト、画面構成にある。つまり、文字種の選択と、その視覚的な配置だ。「ブルーデージー」というカタカナからはじまり、「こころにさきがけて」というすべてひらがなに開かれたフレーズ。そして結びの「涙」の一字だけが漢字という構成。相対的に表意文字であり最後にくる「涙」に重心がかかるため、ついにこぼれてしまうものとしての「涙」の重み、実感、切実さがよりつよく読者に訴えかけてくる。
また「さきがけて」には、「先駆けて」に加え「咲き」の音もかすかに響く。ブルーデージーが咲くことと、涙が心に先んじて現れることが、音の上でもそっとつながっている。
俳句雑誌「noi vol.4」より。
2026年6月19日 弓木あき
弓木あきが読む。
雨いつか雪へとあやとりのはしご/佐藤文香
「雨いつか雪へと」が美しい。空から降る雨粒が、いつのまにか雪片になる。水滴の落下から舞い落ちる白い欠片へ、その変化は瞬間的ではなく、「いつか」というべき時間の幅と曖昧さをもつ。古典的でありながらも、そこには決して色褪せない情感がある。
しかし、そこへ「あやとりのはしご」が来たことで、この一句は特別な手ざわりを得た。「あやとり」の「はしご」は、糸を指にかけて作られた細い線の連なりを指す。空から降る雨や雪と、指にかかった糸の線とが、身体感覚のうえで重なり合う。まるで、雨は縦に張る糸であり、雪は空中で次の行き先を探す糸のよう。気象の変化が、手遊びの次元へと引き寄せられている。句またがりのリズムも、糸を手繰る手つきに似て巧みだ。
「はしご」もここでは単なる二物衝撃の小道具ではなく、それ自体が意味を働かせている。梯子は上と下とをつなぐもの。天から地上へ、そして外の世界から室内の記憶へ。その境界に、「あやとりのはしご」がささやかに渡っている。
佐藤文香『海藻標本』(2008年、ふらんす堂)より。
2026年6月19日 弓木あき
弓木あきが読む。
祈つてゐる時間がぼんやりと寒い/大塚凱
「祈つてゐる」の「てゐる」は、進行・持続のアスペクトを表す。つまり描かれるのは「祈った」時間ではなく、「祈っている」時間なのだ。祈りが終わってから過去を回想しているのではなく、祈りのただなかにある「いま・ここ」の感覚が捉えられている。ここで重要なのは、祈りの内容や成就ではなく、祈りつづけている最中の、出口の見えない暗闇に似た感覚だ。祈りは未来の一点へと向かう行為のはずだが、「てゐる」という持続のアスペクトで示されたことにより、この祈りは目的へ到達することなく、一句の時間の中に永く滞留し続ける。
そして、客体化された主語「時間」を受けるのは、「ぼんやりと」という把握だ。祈っているあいだの意識のにじみや、あるいは救いを信じきれない感覚。輪郭をもつ対象を明晰に描くのではなく、目に見えない「時間」を「ぼんやりと」と捉えることで、祈りという行為のもつある種の不確かさがあらわになる。寒さの所在は身体から離れ、曖昧なまま世界へと拡張される。この感覚のずれが、祈り続けるうちに意識が少しずつ遠のいていく状態をよく表しているのではないか。
また「寒い」の口語終止形が鋭い。言い切ることで、句はそこでぱたりと止まってしまう。詠嘆の切れ字によって劇的に描くのではなく、「寒い」という現在の感覚をそのままに差し出した。祈っている時間がただ寒い。その救われなさ、説明されなさは、平明な口語の終止形によってより一層切実さを増している。
大塚凱『或』(2025年、ふらんす堂)より。
2026年6月20日 弓木あき
弓木あきが読む。
星だかゆめだかわからないもの.+:゚+。 .゚・..みえている、? わすればな/おおにしなお
「星だかゆめだかわからないもの」という口語のフレーズが、一句の認識の揺れを開幕から宣言する。見えているものは外界の星なのか、内面の夢なのか、あるいはそのどちらにも属さないものなのか。掲句はその判別のつかなさを、説明によって解決してはくれない(いじわる?)。
直後に置かれた記号列「.+:゚+。 .゚・..」は、この句の視覚的特徴である。これは単なる装飾ではなく、「星だかゆめだかわからないもの」を、文字列の上に実際に発生させる仕掛けだろう。「星」は、こうした記号の散らばりによって視覚的にもきらめいている。まるで星屑のようでもあり、夢世界の粒子のようでもある。
また、「みえている、?」という表記も印象的だ。「みえている」と言いながら、そのあとには読点と疑問符が置かれる。見えている、しかし本当に見えているのだろうか。これは星なのか、夢なのか。はたまたただの記号列なのか。「、?」という不安定な句読点の並びには、「みえている」ものの不確かさや、対象を既存の名や分類へ回収しない姿勢がある。
下五(?)「わすればな」について、漢字で「忘れ花」と書かず「わすればな」とひらがなに開くことで、季語としての輪郭はいくらかやわらぎ、「わすれ」という記憶の作用と、「はな」というはかない音が前景化する。忘れ花は、小春日和に咲いてしまう(春の)花。「星だかゆめだかわからないもの」もまた、現実の時間や認識の秩序から外れて、不意にあらわれてきたものだろうか。唯一の漢字=表意文字である「星」の硬い輪郭とひそかに対応している。
「〜だか〜だか」のリフレイン、口語、記号列、ひらがなへの開き、問いかけ、季語の選択は、ばらばらな意匠として置かれているわけではない。それらはすべて、「わからないもの」をわからないままに提示するために機能している。本来そこにないはずのものが見えてしまう瞬間を、俳句形式の更新とともに描き出している。
おおにしなお「だれかの手帖、よんでるみたいに」(2026年、俳句ネットプリント「みつゆ」)より。
2026年6月21日 弓木あき
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